英語人格と自己の個性

英語学習=英語でコミュニケーションできる自分をつくる・・そのために、スピーチの音読は最高! だとおもっているトラちゃん(誰?)です。


英語でどう言う?= どう考えている? ていうことなんですね。

日本語の流儀で考えて、英語に変換してしている限り、おかしな英語になり、英語でコミュニケーションができません。


いろんなスピーチを読み込んでいくと、英語的な人格がちょっと出来てきます。

それは、どんな感じなんでしょうか??

スピーチ自体、大勢の前で伝えたいことを話すものです。

スピーチには、「英語」のバックグラウンドをもつ人々につたわるような考え方、表現が多いように思います。

失敗したことでも恐れずにいう、ポジティブになる、挑戦する、結果的に人々の共感をえていく、そいういうスピーチが英語スピーチには、多いです。

そういう英語を読み込んで、英語で考えていくと、なんとなく自分の中に、そういう考え方が芽生えてきます。

ところが、日本人格と異なる英語人格であっても、なにか話そうとすると、その下には、自分らしいところがあります。

英語人格を作っていくと、日本人格とは自分の上に覆い被さっていた、社会的な制約の殻でもあったことに気づきます。

それは、大勢の人が狭いところに暮らす以上、社会的な行動様式を同化させ、ルール、安全、など、必要な思考の制約や強制であった、そのように従わない異物を排除するためのもの、とも考えられます。

もちろん、英語圏の国々の文化にも、それぞれ社会的な共通的な性格や約束事があって、行動したり、話すためのバックグラウンドとなっている部分もやっぱりあります。


それらの違いに気づくことで、大勢への共通の制約、大勢との比較、強制観念的な思考の多くは、今は必要ないものが分かり、自分から分離することも容易になります。

真の固有部分である自己に気づくことができて、様々な小さな縁や、ちょっとした才能に気づき、大事にすることで、自己の縁・才能が開花します。

そこで、きっと自分にしか見えない扉を見つけたとき、ここは自分が通るべきだと思えば、通ることができます。そのあとは、自分にしか生きれない、自分を生きるための「素晴らしい自分の人生」が待っています。

英語の沢山のスピーチを読んで、日本でいろんな経験をして、僕は今、そう思っています。